2011年2月27日日曜日

ル・ピュイ(Le Puy)の聖堂

サン・ミシェル・デギーユ礼拝堂
仏:Saint-Michel d'Aiguihe


ル・ピュイはサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路として古くから栄えた。現在はオート=ロワール県の県庁所在地で、人口は約2万2千人。

サン・ミシェル・デギーユ礼拝堂は、10世紀から12世紀にかけて、82メートルの溶岩峰の頂上に建てられた。


コンク(Conque)の聖堂

サント・フォア修道院聖堂
仏:Saint-Foy

サント・フォア修道院聖堂内部

内陣柱頭と彫刻

コンクはフランス中南部に位置する村で、サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路の一つである。フランスの巡礼路にはロマネスク時代に多くの聖堂が建てられた。

このサント・フォア修道院聖堂のように巡礼路に建てられた聖堂では、巡礼者の訪問に備えた建築の工夫がされている。その一つが周歩廊である。聖堂中心部で典礼が行われていても、巡礼者たちが典礼を邪魔することなく聖堂内を一周できるよう、中央部の聖域と身廊の周りにぐるりと巡らせた廊下がそれである。

またこの周歩廊の外側に小さな礼拝堂が設けられている場合がある。これら礼拝堂は、アプシスの周囲に放射状に突き出していることから「放射状礼拝堂」と呼ばれるが、これはそれぞれの礼拝堂に異なる聖人の祭壇を設けて、信者や巡礼者が敬愛する聖人を祈り、かつ喜捨ができるようにとの工夫である。

聖女フォアの聖遺物容器(10世紀)

サント・フォア修道院聖堂は、3世紀のキリスト教迫害時代に、古代宗教の儀礼に参加することを拒否して、12歳で首を刎ねられて殉教した聖女フォア(フィデス)に捧げられた聖堂である。聖女フォアの頭蓋骨は、黄金と宝石で飾られた聖女をかたどった聖遺物容器に収められている。

2011年2月13日日曜日

テサロニキの聖堂

アギオス・ゲオルギオス聖堂(ロトンダ)
仏:Saint-Georges


テサロニキ(仏Salonique)はギリシア北部にある都市で、ビザンティン帝国時代はコンスタンティノポリスに次ぐ第二の都市であった。
3世紀末、ディオクレティアヌス帝によって東の副帝に指名されたガレリウス帝は、テサロニキを本拠とし大々的に町を整備した。ロトンダ(円筒形の建物)と呼ばれるこの聖堂は、もともとはガレリウス帝の廟堂として建てられたとされている。4世紀初頭の313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認。やがてテサロニキにもキリスト教が広まり、ロトンダもキリスト教の聖堂に改装され、アギオス・ゲオルギウス聖堂(聖ゲオルギウス聖堂)と呼ばれるようになった。


アギオス・ディミトリオス聖堂
仏:Saint-Démétrois
希:Hagios Demetrios


テサロニキには5、6世紀に創建された聖堂がいくつかある。最も有名で、町の中心的な聖堂とされているのが、アギオス・ディミトリオス聖堂(聖ディミトリオス聖堂)である。
聖ディミトリオスは名家の生まれでローマ帝国の優秀な士官だったが、キリスト教に帰依し、迫害にあっても信仰を曲げなかったため、槍で刺されて殉教した。キリスト教公認後、スラブ族など異民族の侵攻にさらされた時に聖ディミトリオスが町を救ってくれたとの噂が広まり、住民から信仰される聖人となった。
5世紀後半、この聖人に捧げる聖堂が建てられる。その後、7世紀に火災で損傷するが、再建される。
ビザンティン帝国滅亡後の1493年にモスクに改変され、<カシミール・ジャミイ>と名付けられる。
1820年代にアテネなどがトルコから独立してギリシアとなるが、テサロニキがギリシア領となるのは、それよりもかなり後の1912年であった。これによりアギオス・ディミトリオス聖堂もモクスから聖堂に戻された。
それから間もなく悲劇が起きる。1917年8月5日、テサロニキで大火災が起こり、アギオス・ディミトリオス聖堂も焼けてしまう。現在のアギオス・ディミトリオス聖堂は、その後再建されたものである。